昨年10月25日。韓国、ソウル市。公式の域で日本の音楽を演奏することが禁止されていたこの団で、ひとりのオペラ歌手が、初めて日本語の歌を歌った。

田月仙(チョン・ウォルソン)さん。

 

「日本は故郷、朝鮮半鳥は祖国」と語る、在日コリアン2世。

祖国への思いを歌に託して、国境の璧を越えた活動を続ける。

「朝鮮半島の南と北で舞台を踏んだ歌姫」

田さんを紹介する記事には、こんな形容がつくとが多い。

そしてその経験は、オペラ歌手としの田さんの活動の原点ともいえる。

1985年、北勒鮮の平壌で開かれた「世界音楽祭」に招かれ、金日成首席(当時)の前でアリア歌う。

そして1994年には、韓国で歌劇『カルメン』の主役を演じ、念願の「南北公演」を果たした。

「日本で生まれ育って、一度も朝鮮半島の]を踏んだことがなかったんです。祖国で歌うとうことは、私がそれまでずっと抱いてきた宝石ようなものを、祖国の人々に披露する、そんなメージでした」

 南と北に分かれていても、舞台に立った時に贈られる歓迎の言葉と拍手は同じ。

祖国はひとつと感じた。しかし、同時に分断の現実や在コリアンであることの微妙な立場も実感しという。

「自分の祖国を思うとき、38度線の北だけか南だけではなくて、やはり朝鮮半島全体の地図がパッと思い浮かびます。でも、まだ私にとても近くて遠い国という感じがあって、祖国ので異邦人的な面がありました」

 そんなとき出会った一曲の歌がある。在米コリアンが作った『高潔山河わが愛』。

『南であれ北であれ、いずこに住もうと、皆同じ愛する兄弟ではないか−』

 祖国統一への祈りのこもったこの曲を歌う田さんの姿は貝韓両国で話題となり、韓国版紅白といわれる『送年・開かれた音楽会』に日本から初めて出演、この曲を披露した。

「それまで韓国の人たちは海外に住むコリアンのことをあまりわからなかったと思うんです。日本で、アメリカで、祖国を離れて海外で暮らしていても、祖国に対する愛を持ち続けて生きてきたコリアンの心を、私の歌で本国の人たちに伝えることができたのではないかと、それが一番うれしくて」

 世界中に散らばったコリアン達の思い、そして田さん自身の芸術家としてのスタンスを託せる歌と出会って、祖国がだんだんと近くなってきた。

昨年の韓国でのリサイタルには、会ったことのなかった親戚も駆けつけてくれたという。田さんにとって朝鮮半島は一つの祖国。

南には父方の墓があり、日本から北に帰った親戚もいる。

 両親は、韓国鹿尚南道の出身。東京で生まれ育ち、高校卒業の歳まで朝群学校で民族教育を受ける。

幼い頃からピアノや舞踊を習い、しぜんと芸術の道を志した。

日本の音大への進学を希望したが、高校卒業の受験資格を認められない、と門前払い。

「その頃から、ありのままの姿で日本の社会で生きていきたいと思っていたので、通名(日本名)は使わず、漢字の上にカタカナでチョン・ウォルソンと書くいていたんです。

ところが、その自分の名前で願書を持っていったら断られた。

その時は、大きな不安と失望感を味わいました」

 幸い、田さんの実力を認め門戸を開いた大学に合格。

そこで、オペラと出会う。オーケストラ、舞台美術、演技、踊り、歌、そのすべてが一体となった総合芸術としてのオペラの世界は、自分のパーソナリティを生かせる一番の場所ではないか。

「どんな広いところでもマイクに頼らず、自分の体一つ。体内に楽器をつくってしまえば誰にも奪うことはできない。そういうことが私にとっては大切なことでした」

 豊かな声量に加えて、ドラマティックな演技力と踊りが田さんの持ち味。より魅力的なカルメンを演じるために、本格的なフラメンコのレッスンを続ける。

朝鮮半島の文化と日本の文化、二つの中で生きてきたことも−つの個性になった。

 ここで、オペラ初心者のためにワンポイントアドバイス。

「恋愛沙汰のものの方がわかりやすいので、『カルメン』『椿姫』『蝶々夫人』あたりから本当にいい公演を見る。

今は字幕も出ますが、ある程度内容を予習していくと、全然違います。イタリアなどでは観客が台本を全部憶えていたりするんですから。一度、感動を得られるとやみつきになりますよ」

 高尚なイメージのオペラの花形も喉の調子に神経質だったり、近寄りがたいひとなのでは?と思っていたら、その素顔は気さくでエネルギッシュ。

本番に向けて体調を整えるための税訣は、訓練と休息のバランスをとること、そして“気功”だとか。

「私、舞台をやっているときは、すっごく元気な人間だと思われるんですよ。それが一旦終わると、もうただ寝るしかないって感じになって。相当なエネルギーを消耗しているんだなと思いますね」 オフの楽しみはスポーツ覿戦。特に大きな大会での真剣勝負が好きだという。2002年のワールドカップが待ち遠しいに違いない。

 

 田さんが生まれた当時、在日の人々は出身地にかかわらず、すべて朝鮮籍。

その後、韓周籍を取得したり、日本に帰化する人々も増えてきた。

朝鮮籍のままではビザが取りにくく、オペラの本場イタリアヘ渡ることさえできない。1993年、田さんは韓国籍を取得。それによって活動の幅はさらに広がった。

 そして昨年、東京都とソウル市の友好都市提携10周年記念式典で、東京都の親善大使として歌い、両国のかけ橋的な存在になった。

それはまた、韓国での日本文化開放の先駆けとなる式典。

日本の植民地支配によって民族の文化を侵害された過去の傷痕が、朝鮮半島にはいまだ根深い。韓国では戦後半世紀以上ものあいだ、日本語の文化、芸能を原則的に禁止してきた歴史がある。

 田さんが選んだのは、韓国歌曲から『高麗山河わが愛』と『懐かしい金剛山』。日本からは『赤とんぼ』『浜千鳥』、そして『夜明けのうた』。しかし、日韓新時代の夜明けを願って選んだこの曲は、「大衆文化解禁第1号か」と日本で大きく報道されたため、韓国政府からの許可がおりなかった。当日、田さんは歌詞のないポーカリーズで『夜明けのうた』のメロディーを歌うことで、日韓友好の祈りをこめた。

「日韓の歴史認識の差が常に問題です。良い悪い、という論争ではなく、日本で道を歩いている普通の若者が、とりあえず過去の事実関係くらいはわかっているようになってほしい。韓国は韓国で、日本のいい面をもっと見て、受け入れてほしいですが、やはり、今の日本の若い世代には非常に不安を感じますね。あまりにも一般レベルで知らない、ということで」

 同じ日本に住む在日コリアンの人々について、あまりにも知らないことが多いのだと篤かされる。知らないと認識し、知ろうとするところからすべては始まる。

民族の“交流”という言葉を持ち出すまでもない。

在日コリアンの歴史は、日本の歴史でもあるのだから。

 2002年、サッカー・ワールドカップが韓国と日本で共同開催される。その年までは、田さんにとつても日韓が大きなテーマ。東京とソウルで日韓歌曲によるコンサートを開くなど、国境を越えた活動を続ける。今年5月には38度線の近く、板門店で歌う。そして、日韓の歌曲を収韓したCDを両国で同時発売する予定だ。

「今までは、世界中のコリアンと私の歌をもって何か共有したいという思いがありました。これからは、日本、韓国だけでなく、アジアの文化、要衝を取り入れて、ヨーロッパやアメリカにもセッションできるような、そんなこともやってみたいですね」

 湖上に咲く水仙に満月の光が射している。母が見たそんな夢から月仙と名づけられた。その名のあらわす姿のまま、稟として女台に立ち、祖国と故郷、そして世界を見つめる。