日韓 歌の架け橋20年

田月仙(チョン・ウォルソン)

 日本語の「愛」、韓国語の「サラン」を男性歌手と二重唱で歌う持ち歌「海を越えて」。日本と朝鮮半島の間で犠牲になった数多くの魂へ捧げるレクイエム「ふたりの海」。在日コリアン二世のクラシック歌手としてデビューして二十年。日韓でオペラの舞台に立つかたわら、両国それぞれの歌を紹介している。

 高校まで朝鮮学校で教育を受けた私は、幼稚園児のころから歌も踊りも得意。小学生で、在日コリアンの歌舞団やオーケストラによる「大音楽舞踊叙事詩」の子役をつとめ、日本全国を回った。そのころ舞台の魅力に目覚めた。

 私は、どうしても日本の音楽大学に進み、音楽家になりたかった。しかし、高校二年の時、父の経営していた事業が行き詰まり、親子六人で、福島の親類宅へ身を寄せることになった。それでも夢を捨てきれず、両親を説得し、私だけ一人東京に残った。昼は朝鮮高校に通い、夜は吉祥寺のパブレストランで弾き語りのアルバイトをしながら、店のママさんの温情で、閉店後は深夜二時までピアノのレッスンをした。

しかし目指していた音楽大学に受験願書を提出すると、朝鮮高校出身では受験資格はないと突き返されてしまった。一七歳の私は途方にくれた。

そんな中、桐朋学園が門戸を開いていて、幸いにも短期大学芸術科に現役で合格した。在学中にオペラと出会い、あの舞台が自分の居場所だと直感した。子役時代に味わった舞台の魅力も蘇った。オペラ歌手になろうと決意した。実家の事業が行き詰まった時はピアノまで差し押さえられたが、歌なら体ひとつでやって行ける、とも考えた。

短大研究科を卒業後は、二期会の研修所でオペラ歌手の修業を続けた。

 八三年に歌劇の名曲とコリア歌曲を取り混ぜたリサイタルでデビュー。これを聴かれたドイツ文学者の池田信雄教授の紹介で松尾洋・竹中史子夫妻が主宰する東京オペラ・プロデュースのオーディションを受け、八五年に本名のまま、念願のオペラデビューを果たした。クラシック楽壇には在日音楽家はほとんどおらず、芸能界でも在日コリアンの多くが日本名を名乗っていた時代だ。

 八五年には北朝鮮政府から「四月の春親善芸術祝典」に招かれ、初めて半島で歌うことができた。その後、韓国籍を取得。九四年に韓国オペラ団から招かれ、ソウルの国立歌劇場「芸術の殿堂」でソウル定都六百年記念公演「カルメン」(ビゼー作曲)の主役を演じた。

 声の調子は万全ではなかったが、日本人声楽家の社会の中で特色を出そうと、フラメンコまで含む踊り、演技の勉強に打ち込んだ努力は報われた。地元紙は「韓国人歌手にはない舞台女優ぶり」と批評してくれた。 

以来、日韓を往復しつつ数々の素晴らしい歌と出会ってきた。中でも、私のテーマ曲のようになっている「高麗山河わが愛」は印象深い。

 韓国でいろいろ求めたテープやCDの中にその歌はあった。「南であれ、北であれ、いずこに住もうと皆同じ、愛する兄弟ではないか…」と歌い出す詞が自分の心情とぴったり重なった。メロディも素朴で親しみやすく「ずうっと歌っていくべき作品」と心に決めた。

 北と南で歌い「在日コリアンの私が思い描いた『祖国』は、こうも違う二つの国になったのか」と驚いたが、歌詞や旋律に対する聴衆の反応は全く同じだった。在日同胞も皆、この歌に涙を流す。「最後は一つのコリアになる」との願いも込め、世界のあちこちで歌い続けたところ、ある日、在米コリアンの作者ノ・グァンウクさんから手紙が届いた。

 「韓国の歌手でも、祖国を思い歌う人は少ない」といった内容の感謝状だった。九六年には米ロサンゼルスでの公演後、ノさんを訪ねる模様が韓国のテレビ番組となって反響を呼び、年末には日本の「紅白歌合戦」に匹敵する番組へ出演した。最も愛する歌を通じ、在外同胞への関心が低いとされる韓国人に在日コリアンの心情を伝えることができたのは歌手冥利に尽きる。

 故郷である日本と祖国朝鮮半島を行き来しながらの歌手生活の中でもやはりサッカーW杯共催は特別な出来事であった。韓国で最も人気のある創作オペラ「春香伝」(玄済明作曲)の日韓両公演の主役に抜擢された。W杯閉幕式の後には小泉総理主催金大中大統領歓迎公演でも持ち歌を歌う機会に恵まれた。かつては大学の受験資格もなかった私にこのような役割ができたのは、日韓文化交流の状況が二十年前とは一変したことを実感する思いだった。二月二八日に東京の紀尾井ホールで開く二十周年記念リサイタル「永遠の愛を…」も架け橋役としての、長い歩みの一コマである。(ソプラノ歌手)