朝日新聞アエラ(AERA)

海峡越えた歌姫が明かす「北への怒り」
在日2世の声楽家・田月仙さんが自伝で

2004年正月、母はもはや話ができる状態ではなかった。
母の最後の言葉を聞きたい。記憶を取り戻す言葉は一つつだけ。
「北朝鮮……」と耳元で伝えた。
「悔しい……」
母は確かにそう言った。そして二度と口聞くことなく翌年2月、帰らぬ人に。78歳……。         
母の話になると田月仙(チョンウォルソン)さん(49)の声が震えた。目が潤んだ。
田さんは在日2世のオペラ歌手。1985年に訪朝して金日成(キムイルソン)主席の前で歌い、94年には韓国でオペラ公演の主役を演じた。
02年のサッカーw杯閉幕時に行われた小泉首相(当時)主催の韓国大統領歓迎公演で独唱。「海峡を越えた歌姫」とテレビの長編ドキュメンタリーにも取り上げられた。
「別荘」、実は収容所
その彼女が自伝「海峡のアリア」を書いた(12月13日発売)。北朝鮮支持の在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)系の学校で育ち、日本の音大を経て音楽家となった彼女が「北」と「南」で歌うことになった経緯と、歴史に埋もれた朝鮮半島の音楽家たちを訪ね歩いた旅などが描かれている。
が、華やかな活動の裏にはきれい事ではない事実が秘められていた。

田さんには帰国事業で59~60年に日本から北朝鮮に渡った4人の兄がいた。4人は母と前夫の間の子で、帰国時は2歳ほどの田さんには見覚えがなかった。
「小学校の頃、兄たちの写真を見つけた私が尋ねても、母は『遠くにいる親戚だ』と言うだけ。兄だと知ったのは高校生の時。驚くというより、私や姉、弟たちを思いやり、話さなかった母には、いろんな苦労があったんだなと」
母のもとに71年、帰国した友人から手紙が届いた。「あなたの子供たちは府中の別荘にいる」。
友人は北朝鮮当局の検閲に悟られないよう強制収容所のことを「別荘Jと書いたのだった。
80年、北朝鮮を初めて訪ねた母はやせ細った息子たちと再会した。
4人はスパイ容疑で69年から78年まで咸鏡南道の耀徳収容所に入れられた。次男は収容所で死亡。まだ24歳だった。
この時期。数多くの帰国者が一晩のうちに逮捕、収容所に送られている。帰国者の子供で耀徳収容所を体験、韓国亡命後に新聞記者となった人種活動家の姜哲煥(カンチョルファン)氏は収容所で4人をよく知っていた。
「怒りと絶望の人生」
「罪があるなら、美術仲間同士の席でミケランジェロを尊敬すると言ったことしか思い当たらない」と、2度目に訪れた母に彫刻家志望で帰国した長男はつぶやいた。
「その後の母の人生は、わが子の人生を無残に奪った北朝鮮政権に対し、決して許せないと言う怒りと、絶望の交錯する激しい思いに埋め尽くされた」(著書から)
母は知り合いや朝鮮総連関係者に帰国者の惨状を訴え始め、北朝鮮の惨状を告発する市民団体にも参加するようになった。
田さん自身が兄たちと会ったのは85年4月朝鮮総連の誘いで金日成主席の誕生日祝賀行事で歌うため初訪朝したときだった。僻地に追いやられた兄たちと、ひのき舞缶で歌った妹。ただ一度の出会いだった。
「その後も訪朝のオファーは来ましたが断りました。兄たちの受けた現実を知りながら、あの国の体制を賛美する歌は軟えない」90年と01年に2人の兄が病死。残った兄も音信が途絶えた。
「母の死で、どうしても自分の言葉で書かなければならないと思った。在日には『北朝鮮の実情を語っても日本人の物笑いの種になるだけだ』との思いがある。私の中にもあります。でも、もっと強いものがあった。母と兄の思いを形として残したい気持ちが」
編集部  小北清人