2006年12月12日 産経新聞

『海峡のアリア』田月仙(チョン・ウォルソン)著

 ■在日歌手がつづる“レクイエム”

 歌を歌えなくなった経験、ありますか? 歌詞やメロディーを忘れたというのでは無論ありません。悲しくて、腹立たしくて、心の中の思いを外に出せないがゆえに、歌う気持ちになれなくなるという感覚−−。

 在日2世の女性オペラ歌手である著者の田月仙さんは、そんな経験をもっています。デビューまもないころ、北朝鮮に招聘(しょうへい)されて金日成主席の前に立った彼女は、政治的背景も、個人的な思いも封印して、ただ全身全霊をかけてアリアを歌いました。また、「反日」が色濃く残る韓国で日本の歌を拒否されてもなお、彼女は「在日」である自分にしか歌えない歌を求めてこんな歌を見いだしました。

 「南であれ 北であれ いずこに住もうと みな同じ 兄弟ではないか……」

 そんな歌とともに生きてきた声楽家が、しかし、ある時、歌うことができなくなってしまうのです。それは「祖国」北朝鮮が「故郷」日本の無実の人々を拉致していたことを認めた日朝首脳会談がきっかけでした。

 

 

実は彼女の兄もまた、北朝鮮に酷(ひど)い仕打ちを受けていました。かつて「地上の楽園」と喧伝(けんでん)されていた北朝鮮に望んで「帰国」していった4人の兄。しかし彼らは、かの悪名高き強制収容所に入れられてしまったのです。その事実に、誰よりも怒り、悲しんだのは田さんの母親でした。心底信じていた「祖国」に裏切られたことを悟った母は以来、孤独な、しかし断固たる闘いを始めるのです……。

 そんな母の思いに支えられ、田さんは再び歌うことを決意します。本書は、涙なくしては読めない、母や家族への“レクイエム”とも言うべき作品です。