Post Book Review (週刊ポスト07年3月)
著者に聞け!
孤立無援で語り続けた母の思いを継ぐべく名もなき人々のために歌い続ける
田 月 仙
06年公開された映画『めぐみ』の副題は“引き裂かれた家族の30年”  。愛娘を奪われた家族の、とりわけ拉致問題が今日のように注目される以前の孤立無縁な闘いに、観る者は自分を含めた世間の無関心を反省させられることになった。
「もちろん拉致問題と同列に語ることはできませんが、私の母も同じような思いを抱えて生きてきたと思う」
そう語るのは、国際的に活躍する声楽家・田月仙(チョンウォルソン)氏。在日二世として東京・立川に生まれた彼女には実は4人の異父兄がいた。
前夫と離婚後、いわゆる帰還事業(1959年~)で北朝鮮に渡った息子たちが、地上の楽園と喧伝される祖国できっと幸せに暮らしていると信じて疑わなかった母。だが、その思いは結局、“祖国”によって裏切られてしまう  。
第13回小学館ノンフィクション大賞・優秀賞受賞作『海峡のアリア』は、田氏が母や兄たち、そして自身の波瀾の生涯を綴(つづ)った渾身のノンフィクション。海峡のこちらとあちらに引き裂かれた、もう一つの家族の物語を、彼女は声楽家ならではの目で見つめる。

田氏は85年春、平壌・万寿台(マンスデ)劇場で金日成(キムイルソン)主席(当時)を前にアリアを高らかに歌い、02年日韓W杯の際には小泉首相主催・金大中大統領歓迎公演の舞台に立った歌姫でもある。
<「祖国」朝鮮半島と、海峡を挟んだ「故郷」日本との間で、在日コリアン二世の私の思いは宙をさまよい、幾重にも重なりあう複雑な輪舞(ロンド)を描く> <それでも私は、暗闇から光の中へと絶え間なく歩みを進め、歌い続けた>   本書はそんな彼女が世界的なオペラ歌手となるまでの軌跡をたどる一方、05年に亡くなった母が抱え続けた<恨(ハン)>を書き綴る。それは在日コリアンの一家族の歴史であると同時に、我々の目に見える・見えないにかかわらず存在する現在進行形の歴史なのだ。
「母が胸の奥に慟哭(ドウコク)を抱えているだろうことは子供心にも何となく気づいていました。兄たちのことを語ろうとしない母を、私たちも何も開かずに見守っていた。
そして80年にやっと訪朝の機会を得た母は、それこそ船が着く寸前まで祖国北朝鮮を信じていた。ところが母を出迎えたのは明らかに痩せ衰えた3人の息子で、4人の兄のうち次兄は既に亡くなっていた。北朝鮮で謂(イワ)れなきスパイ容疑をかけられた児たちは69年から9年間、強制収容所に入れられていたんです……」   
この3人の兄には、田氏も85年に平壌へ招待された際に面会している。そして〝特別待遇″にあった彼女は、検閲を受けることなく長兄の手紙を母に持ち帰るのだが、そこには彼らが〝楽園″で受けた仕打ちと、収容所で力尽きた次兄の死に至る経緯が事細かに書かれていたのである。
長兄は北朝鮮各地にある収容所で今も苦難を強いられている同胞のために戦うのが自分の務めだと書き、<オモ二(お母さん)、この息子に対してあまり心配をLないで下きい><どんな逆境の中でも、善と悪を見抜くことができる、また正義のためなら命を捧げることもできる、そういう意志を育ててくれた、愛する私のお母さんに、心から感謝しています>と結んでいた。
が、その彼も90年に息絶える。そして、失意の底に沈んだ母はどうしたか……。語り始めたのである。母は自ら営む韓国料理店で客を前に“楽園”のウソと現実を説いた。当時まだ北朝鮮問題への世間の関心は薄かったが、母の話に耳を傾ける人は徐々に増え、彼女の孤独にして勇気ある闘いはやがて「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」等の活動に結実してゆく。
「家族と引き裂かれて苦しんでいるのは自分だけではないと母はよく言っていた。帰国者を家族にもつ在日の多くは、国交がないからという理由で日本には見捨てられ、下手に騒げば北朝鮮にいる家族や自分の身も危ぅいという立場に置かれた。
その点、母の場合は父が事業に失敗して以来、在日社会から距離を置くことになったのが逆に幸いしたとも言え、病に倒れる寸前まで語り続けたんです」
それは田氏が朝鮮高校2年生だったころ、リヤカー1台から築いた父の会社が倒産、一家は夜逃げ同然に東京をあとにする。だが、音大受験をめざす彼女は気丈にも一人束京に残り、知人宅に身を寄せてピアノの練習に明け暮れたのだ。
「両親とは連絡すら取れないし、本当に心細かった。でもわかりませんよね、人生なんて。あのとき孤独にたえたから今があり、声楽家として北朝鮮に招かれたからこそ、兄の手紙を母に届けることもできた。そして孤立無援で語り続けた母の思いを継ぐように私はこの本を書き、母や兄や歴史に埋もれさせてはならない名もなき人々のために歌を歌っているんです」
『歌』は国家にも殺せない“生き物“
芸術を愛した両親のもとに生まれ、学芸会では常に主役。そんな幼少時から朝鮮学校時代のエピソードは、のちに田氏が世界中の舞台に立つべくして立った必然を感じさせる。例えば童謡の『うれしいひなまつり』を聴いて、幼稚園児の彼女は<なんて悲しいメロディなのだろう>と思うのだ。
「♪今日はたのしいひなまつり……と歌詞がついているのに♪今日は悲しいひなまつりと歌いたくなった。こんなに悲しいメロディがなんで楽しいのかなって」
歌詞に惑わされずに曲調を感じるその感性は本書でも大いに発揮され、田氏は韓国で
<倭(ウエ)色(セク)(日本的)>や作者の<越北>を理由に歌唱が禁じられた<失われた歌>を探し出す旅に出る。
「歌は理屈ではなく感情に訴える。だからこそ政治に利用されることもあって、韓国でも75年の<歌謡大虐殺>など多くの歌が犠牲になってきた。ただ面白いのは、かつて金日成の抗日パルチザンに歌われた『反日革命歌』の旋律が実は日本の『鉄道唱歌』だったり、メロディだけが生き残る場合もあって、今でも老人達が口ずさんでしまう禁じられた歌からは韓国が歩んできた歴史が教科書で読むよりずっと生々しく感じられた。歌は国家にも誰にも殺せない生き物なんですよね。
そんな失われた歌たちを訪ね歩くようになったのも私自身、ある曲を歌うことを禁じられたからでした」
98年、東京とソウルで行なわれた姉妹都市提携10周年記念公演で日韓両国の歌を歌うことになった田氏は、日本の歌から『赤とんぼ』と『浜千鳥』、そして新たな日韓関係への祈りをこめて岸洋子のヒット曲『夜明けのうた』を選曲する。
だが日本文化が完全には解禁されていなかった当時『夜明けのうた』には演奏許可が下りなかった。そこで彼女は、苦渋の末にある方法でこの曲を歌いきるのだ!
<私は両国の歌を、誇りを持って歌いたかっただけなのだ>   その揺るがない意志は、兄の手紙や母の姿にも通じ、一族の血のようなものにさえ思えてくる。
「我々が生きている“今”だって後世にどう判断されるかはわからないし、その時々の見え方に左右される“大きな歴史”より、自分や家族が生きた歴史を信用するところが私にはある。あれほど信じた祖国に母が裏切られたように、国や思想は個人を平気で裏切る。だからこそ自分はこれだけは譲れないという一線を私は大事にしたいし、兄たちの無念を思えば自分に忠実に生きることが許される人間には、そう生きる責任があると思う。そしてどんなときも自分を信じ、自分に忠実であれと、私は母の背中に教えられたんです」
拉致問題にしてもそうだが、社会的注目やスポットライトが当たる場所は常に限られる。しかしその光の外にも歴史は進行している。その見えない真実を私たちに数えてくれるのは、家族の歴史を埋もれさせてなるものかという個人の思いなのかもしれない。
●構成/橋本紀子